いぬのいる島

日々、散歩しては迷っている

3月21日(木) 2本の映画が見せた「男社会」 『豚と軍艦』『12日の殺人』

 

早朝まで起きてお酒を飲んでいたのだが、二日酔いにもならず起床。10時すぎに目を覚まして、パートナーが淹れてくれていたコーヒーを温めて飲む。彼女は仕事に出掛けていたが、わたしは今日は1日休みだ。

 

今日は映画を観に行こうと思う。ということで、支度をはじめて洗濯ものを干して、2回目の洗濯をして、皿を洗う。洗濯物を干して家を出た。外に出てみると、肌寒いが雨は降っていうなかった。曇っていた。少し風もあるが、昨日ほどではない。自転車に乗って、まずは京都文化博物館へ。

 

京都文化博物館にはフィルムシアターという常設の映画館がある。

 

そして本館3階には“京都府保存映画観賞会”から引き続いて京都府所蔵作品を上映する『フィルムシアター』が常設ホールとしてオープンした。京都で生まれた映画を中心としたフィルムや資料の(公開を前提とした)保存と収集…そして復元を行い、これらの資産を次の世代に遺す事が大きな役割だ。

(引用元:港町キネマ通り:http://www.cinema-st.com/classic/c054.html

 

最近の映画はデータで素材が制作されるが、京都文化博物館ではフィルムで映画を観ることができる。貴重な場だ。しかも500円という超安価な価格で見れる。学生料金はさらに安く、わたしも学生のころはお金がなくてもスクリーンで映画が見れるのでたまに観に行っていた。近頃は行けていなかったが、入るたびにワクワクする好きな劇場だ。

 

今月のプログラムは「アウトローなヒーローたち – 現代劇篇」ということで、50〜70年代の日本映画で破天荒な登場人物が登場する作品を特集して上映していた。わたしが観に行った作品は今村昌平監督の『豚と軍艦』だ。

 

 

水兵相手のキャバレーが立ち並ぶ横須賀ドブ板通り。そこでモグリの売春ハウスを営む日森一家は、当局の取り締まりで根こそぎやられてしまい青息吐息。行き詰った彼らは基地の残飯を使って豚の大量飼育を考えつき、今までハウスの客引きをしていたチンピラ欣太も豚の世話をすることになる。ある日欣太は、日森一家の幹部で胃病持ちの鉄次に流れやくざ・春駒の死体の始末を頼まれ、死体を豚に食わせてしまう。その後、一家の連中が食卓に上がった豚料理を食べていると、肉から金歯が出てきて…。

(引用元:https://www.nikkatsu.com/movie/20503.html

 

時間ギリギリになってしまったが、場内に入ると60歳以上のお客さんを中心に席は6、7割ほど埋まっていた。場内がゆっくりと暗くなり、映画がはじまる。作中の人々はベース(米軍基地)に依存する繁華街で暮らす貧しい人々で、それはそのまま戦後の日本の縮図的な一面なのだろう。やりきれなさも次の瞬間には「笑う」ことで自分を奮い立たせ、生きていくしかない人々がそこにいた。しかし、娯楽映画でもあり、ユーモラスな場面が多くて場内ではしばしば笑いが漏れる。ヤクザの死体を食べた、豚を丸焼きにして麻雀卓の上で食べるシーンでは、ヤクザたちが吐き気を催す姿にある意味かなりグロテスクなシーンなのにも関わらず、おかしくて笑いがおさえられなかった。

 

カメラの動きが画を立体的に作っていて、映画に引き込まれる。スクリーンの向こうの白黒の世界に深さと生命の躍動を感じた。ずっとおもしろい映画だった。ダレないし、とにかく引き込まれていく。思い切りのいい編集もすばらしい。

 

この物語の主人公は日森一家のチンピラ・欣太なのだが、作品の眼差しはヒロインの春子に向けられていたように思った。「穀潰し」と家族に罵られ、ヤクザの兄貴分に自分の未来を賭けるしかない欣太を信じ続け、「一緒に川崎に行ってまともな人間になろう」と説得し続ける春子は、物語の終盤で欣太がもう戻ってこないことを知る。彼女は自暴自棄になり、それまで嫌がっていた姉の紹介を受け入れて米兵の「オンリー」になる運びになる。嫁ぐ日の朝、荷造りをしながら口紅を厚く塗る春子だったが、嫁ぐ先の米兵が近所の子供たちにお菓子を配っているのを見て、そしてそれを見て笑う家族を見て、綺麗なワンピースを着たまま家を飛び出し、川崎行きの列車に乗るために駅に向かって歩き出す。前だけを見つめて歩く彼女は、塗っていた口紅を拭って、胸をはって歩き続ける。

 

胸が震えた。恋人が亡くなり、泣いて終わりではない。そのあとも人生は続く。それでも歩き続けなければならない。そして、女は男のそばにいるだけの存在ではないし、ずっと振り回されるだけの存在でなど決してない。口紅を落として、自分の足で進むのだ。その春子の眼差しのかっこよさを応援したかった。素晴らしい映画だった。

 

 

しかし感動に浸ってもいられない。わたしはさらにもう一本映画を見たかった。その映画は『豚と軍艦』の終了15分後に、文博の近くの映画館、アップリンク京都ではじまる。急いでアップリンクに滑り込んだ。映画はフランス映画『12日の殺人』だ。

 


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「悪なき殺人」で話題を集めたフランスのドミニク・モル監督によるサスペンススリラー。ポーリーヌ・ゲナによる2020年のノンフィクション書籍をもとに、モル監督とジル・マルシャンが共同で脚本を手がけ、未解決事件の闇に飲み込まれていく刑事の姿を描き出す。

 

10月12日の夜、女子大学生クララが焼死体となって発見された。捜査を担当するのは、昇進したばかりの刑事ヨアンとベテラン刑事マルソー。2人はクララの周囲の容疑者となり得る関係者に聞き込みをするが、男たちは全員クララと関係を持っていたことが判明する。殺害は明らかに計画的な犯行であるにも関わらず、容疑者を特定することができない。捜査が行き詰まるなか、ヨアンは事件の闇へと飲み込まれていく。

(引用元:映画.com:https://eiga.com/movie/100754/

 

「未解決事件」を扱った名作映画はたくさんある。『殺人の追憶』『ゾディアック』などなど。わたしも未解決事件や実在の事件をテーマにした映画ばかりを観ていた時期があった。人はなぜ「未解決事件」に惹かれるのか。真実を知りたいからだろうか。それとも事件の背景にあったはずの暗い深淵を覗き込みたいのだろうか。『12日の殺人』も「未解決事件」に取り憑かれる刑事を描く。

 

しかし、物語は「ある犯人」を指摘して終わる。ネタバレはしないけど、この作品も偶然だが「男であること、女であること」に強く言及する映画だった。冒頭の殺人が行われるシーンで、これから殺される少女クララの名前を犯人が呼ぶ描写が入る。そのとき男性の声で名前を呼ぶので、わたしは「え、犯人の性別が声でわかっちゃうんだ」と思ってしまった。違う。あえて男性に、被害者の少女の名前を呼ばせたのだ。それがこの映画の本当に観せたいものだったのではないか。

 

こちらもいい映画だった。『豚と軍艦』と『12日の殺人』は国も時代も違うが、男女の性別の違い、そしてそれだけで決まってしまうものを強く意識する組み合わせが共通していた。わたしは男性であり、この事実に見て見ぬふりはできない。これまでは男性から見ないようにされてきた。映画は社会と人間を映し出す。目を背けてはいけない。

 

 

さて、アップリンクを出てSpotWORKのマップを開くと夕方になって余ったバッテリーがポツポツとあった。作業の予約をしてコンビニを周る。路面が濡れており、どうやら映画を見ている間に雨が降ったようだ。夕方の烏丸通は職場から帰宅する人と、観光の人でただでさえ狭い道が狭くなっていた。安全のためにゆっくり自転車を漕ぐ。ゆっくり漕ぐのもあるが、映画を観たあとは通りを行く人の表情をよく見るようになる気がする。しかし、同時にわたしの顔も見られている。目が合う。わたしはどんな顔をしているのだろう。

 

回収の依頼を2件すませて、2個のバッテリーをリュックに入れる。いま回収したばかりのバッテリーを今度は補充した。さらに1個バッテリーを回収して、だんだんと暗くなってきた道を走って、夕食の材料を買いにスーパーへ向かう。

 

今日は蓮根やかぼちゃ、豚肉が安い。家に帰って夕食の準備だ。安かった蓮根と冷蔵庫で古くなっていた合い挽き肉を使って挟み焼きを作る。蓮根は薄く輪切りにして水にさらし、豚ひき肉は片栗粉・塩・しょうがすりおろし・醤油を少し入れて捏ねて、蓮根で挟んで焼き、醤油・酒・みりん・砂糖のタレを絡めた。野菜室のアスパラとにんじん、蓮根はさっと茹でて胡麻和えにして、小松菜は安かったオクラと豚バラ肉でオイスターソースで炒める。最後にかぼちゃだけの味噌汁を作って完成だ。

 

料理を作り終えたタイミングでパートナーが帰ってきた。夕食にする。わたしはここ最近お酒を飲んでばかりだったので、きょうは飲まないことにした。彼女も料理を美味しいと言い、よく食べていて嬉しい。わたしもついつい食べ過ぎた。昨日の夕食の話をして、わたしは調子にのって喋り過ぎたことを反省した。一緒に行ってくれた友人ふたり、喋り過ぎてごめんなさい。このお酒の酔い方の悪さをなおしていきたい。お酒を飲んでも人の話を聞くようになりたい。

 

 

お腹がいっぱいになり、ふたりともこたつに入って休憩。彼女はスマホを見て、わたしは日記を書く。そのうち彼女はうとうととうたた寝を始めた。わたしは日記を書き終えて風呂に入る。上がって食器を洗って、明日のおにぎりを握って、『カラマーゾフの兄弟』を読んだ。パートナーも観念したらしく、風呂に行った。わたしは先に眠気がきたので、就寝。きょうもいい1日だった。