いぬのいる島

日々、散歩しては迷っている

4月11日(木) 『ゴッドランド GODLAND 』 『オッペンハイマー』 酒場の偶然とままならない人間(わたし)

 

 

今日は休みだったので、ゆっくりと目を覚ました。10時ごろに目を覚ましてコーヒーを飲み、洗濯機を回す。このところ洗濯できていなくて溜まっていた。

 

それから出かける支度と同時進行で洗濯物を干す。あいにく我が家のベランダはあまり広くないので、服を干す場所のやりくりに苦戦した。隙間なく干してしまいたいが、服と服の間に風の通り道がないと乾燥を阻害してしまう。あたたかくなって、これからどんどん暑くなるわけだが、洗濯ものが早く、しっかり乾くのはが一番うれしいかもしれない。服たち、みんなよく乾け。干す行為に、なにか育てる喜びみたいなものを感じる。

 

このあとお昼から髪を切る予約をしていたので、その前にSpotWORKの作業をこなしてしまおうとマップを開く。二条駅の方向にバッテリー補充依頼があったのでこれを予約。そのまま昼食も済ませることにして、美容院の近くの「はなまるうどん」へ移動した。今に始まった話ではないが、最近のうどんチェーン店のうどん美味しすぎる。今日は暖かいので「冷やしおろしぶっかけ」に大好物のちくわの磯辺揚げをトッピングした。

 

 

お腹も満たされ、ほんの少し時間があったので近くの公園でひと休みする。ちょうど周りのオフィス街のお昼休みの時間帯だったので子供も大人も多かった。みんなそれぞれに過ごしながら、同じ桜の樹を見ては散っていく花びらを目で追いかけるわけでもなくただただ眺めていた。子供たちの高い笑い声が聞こえる。散歩中の犬がその声に反応する。スーツを着た男女が談笑している。いい時間だなあ。

 

ことし最初で最後の花見かもしれない

美容院の予約の時間がきたので店に向かった。いつもヘアカットをお願いしている美容師のKさんにお任せする。髪を他人に触られるのってなんであんなに気持ちいいんでしょう。もちろんKさんの腕がいいからというのもあるだろう。美容院にくると毎回考える。

 

そしてこれを考えるときにはいつも、わたしは自分が子供のころのある夏の日を思い出す。それは「他人にうちわで扇いでもらうと、自分で扇ぐより2倍気持ちいい」と気づいた瞬間だ。わたしが小学1年生の時、夏の教室で、正確にはうちわではなくプラスチックの下敷きをうちわの替わりにして、友達が扇いでくれたのだった。あの瞬間をきっとずっと忘れないだろう。わたしがはじめて他者の存在を、身体感覚で意識した瞬間だったのかもしれない。さすがに言い過ぎかもしれない。

 

 

話が逸れたが美容師のKさんとわたしは、共通の趣味が映画とお酒なので、最近の施術中の会話はこの話題だ。楽しいなーとぼけっとしているといつの間にかヘアカットが済んでいる。いつもありがとうございます。

 

美容院を出て、今度は四条烏丸京都シネマへ。『ゴッドランド GODLAND

』を観に行く。

 


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デンマーク統治下にあった19世紀後半のアイスランドを舞台に、布教の旅に出たデンマーク人牧師の過酷な旅路と異文化の衝突をスリリングに描いた人間ドラマ。

 

デンマークの若き牧師ルーカスは、植民地アイスランドの辺境の村に教会を建てるため布教の旅に出る。アイスランドの浜辺から馬に乗って遥か遠い目的地を目指すが、その道程は想像を絶する厳しさだった。デンマークを嫌うガイドの老人ラグナルと対立する中、思わぬアクシデントに見舞われたルーカスは狂気の淵へと追い込まれ、瀕死の状態でようやく村にたどり着くが……。

(参照:映画.com)

 

 

ずっと不穏。すごい不条理。そしてあまりに取るに足らない人間の儚さ。全部わたしの好みドストライクな映画だった。もちろんパンフレットも購入した。このあとじっくり読むが、とても良かった。こういう映画が大好きだ。

 

最近『アイアンクロー』をはじめ、どこか「人間や人生って、もしかしてわたしが思っていたより素晴らしいものだったのでは…?」という感想になる映画が多かった。しかし、わたしの本来の好み、というかわたしの性格の暗さを思い出させてくれる映画で、だからとても馴染んだ。こういう映画が観たかったのだ。

 

アイスランドの過酷な自然環境を前に、泥だらけになりながらのたうち回る人間たち。人間ってそういう一面があると思う。もちろんその「人間」にはわたし自身も含まれるし、わたしはその辺の人間よりかなりままならない。そんな人間のままならなさがおもしろくて愛おしいと思えるような、いい映画を観た。

 

本当は家に帰って料理を作ろうと思っていたのだが、こんなにテンション上がった状態のまま家に帰れない。という勢いで、いつもの西木屋町の立ち飲み屋さん、レボリューションブックスへ飲みに行く。

 

レボで出会って以来、友達のY.Bさんも来ていて、興奮冷めやらぬまま『ゴッドランド』の感想をぶつけまくる。彼は現在、昭和の日本人評論家を専門に研究しているしている文学研究者で、わたしが感情に任せて口からあることないこと垂れ流しても、忍耐強く聞いてくれる上に言葉の勘所を押さえて発言を組み立て直し、「常識的な会話」にまで昇華させることができるというすごい友人だ。さきほどの『ゴッドランド』ではないが、彼は一本の教養の河のようで、つまり、その前でのたうち回るわたし。いつも喋りまくってすまない。今度奢らせてください。

 

会話に花を咲かせていると、わたしがお店に入った時から店主のNさんと話していた、わたしたち以外のもう1人の男性客から話を振られた。わたしは酔っ払っているのでこの方とご機嫌に話をしていると、その男性のお父上が生前本を出したことがあるという話になった。なんとその本を出した出版社が、Y.Bさんが研究している評論家が、戦後に取締役を務めていた会社だというのがわかった。そんな偶然あります?

 

当時のその男性のお父上が受けとった電報には「(その評論家が)あなたの原稿を持って帰った」という内容が書かれていたらしい。偶然ってすごい。この後本は出版されたそうだ。そのお客さんとY.Bさんの話が盛り上がっていく。立ち飲み屋ってすごい。こういうことが起こるから飲み屋通いがやめられない。

 

しかしまた、わたしはこの時、酒に酔って気持ちよくなりすぎてベラベラと余計なことまでしゃべってしまって、店主のNさんに嗜められた。わたしの酒癖の悪さが出た。反省しないといけない。何度目なのだ。立ち飲み屋が公共の場であることを忘れてしまっていた。周りの人たちにも申し訳ないことをした。申し訳ありませんでした。

 

パートナーに「きょうご飯作れなくてごめんなさい」とLINEのメッセージを送った。このあと、わたしはレイトショーのIMAX版『オッペンハイマー』を観に行くという予定を入れていたのだ。明日から『名探偵コナン』の劇場版の新作が公開されるので、『オッペンハイマー』のIMAX上映が本日限りなのだ。でも飲みを切り上げて帰れるほど、わたしの意志は強くない。結局、上映時間ぎりぎりまで飲んでから映画館へ急いだ。どこまでも身勝手な人間なんだわたしは。

 


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ダークナイト」「TENET テネット」などの大作を送り出してきたクリストファー・ノーラン監督が、原子爆弾の開発に成功したことで「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた歴史映画。2006年ピュリッツァー賞を受賞した、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション「『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」を下敷きに、オッペンハイマーの栄光と挫折、苦悩と葛藤を描く。

 

第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。

(参照:映画.com)

 

この作品を観るためにNetflixで『アインシュタインと原爆』を見る程度には準備をして臨んだ。クリストファー・ノーラン監督作品は一見すると難解なことが多いので、覚悟はしていたが、それなりに期待もしていた。いろいろな物議を醸した映画という情報も聞いていたし。

 

率直な感想としては期待以上に「面白かった」。この日のわたしのコンディションも、お酒を飲んだ状態で万全ではなかった。そして、上映作品は3時間と、長丁場だったので寝てしまっても仕方がないとも思っていたけど、寝ることはなかった。トイレが我慢できずに一度途中退場した以外は、ずっとスクリーンから目が離せなかった。基本的には会話劇の映画だが、観ている人を飽きさせない工夫が随所に見てとれた。

 

特に音の演出がすばらしかった。わたしは熱心なノーラン監督のファンではないが、いままで観てきた同監督作品のなかでは、音響演出への繊細な意識が一番はっきりと感じられた。「ノーラン作品といえばIMAX」という安易な考えで、まずはその巨大なスクリーンサイズを期待してこのフォーマットで観にいったのだが、一番の収穫は音だった。

 

わたしは原子爆弾の被害を受けた国の生まれで、広島に近い山口県で育ったので、やはりこの作品の「原子爆弾」の描き方と「その後」の描かれなさに手放しで賛同するわけにはいかない。しかし、米国人の現代的な「原罪」としての原爆投下については伝わってくるものがあった。

 

また印象的だったのは、日本語字幕の言葉の選び方だ。直接的な翻訳は台詞の誤解や曲解につながると考えたのだろう、とてもニュアンスを重視した翻訳になっていて、字幕映画の限界についても考えてしまった。かなりデリケートなテーマを題材に扱っているので、字幕翻訳者の苦労は想像に難くない。もちろん、台詞だけでなく、言葉というものは同じものを使っていても異なる意味での解釈が可能であるのが当然なので、仮に原語で映画を観たところで製作者側の意図した意味で観客が受け取れるわけではない。しかしどうしたってその台詞の含意するもの、多様さを削り落としてしまうのもまた、字幕で、というか他言語で映画を観ることの限界だと思う。

 

ロバート・オッペンハイマーという人物の功罪の描き方に関しては、わたしが当人について不勉強なせいで判断は下せない。しかし、現在からの大局的な視点からみるかぎり、正直仕方がない部分はあるのではないかとわたしは思う。

 

たとえば、わたしは映画が好きで、「全てが許されるなら、自分のなかの革新的なアイディアを用いて理想の映画を作る構想がある」とする。そんなわたしのもとに国や周囲からの、時代的な要請で、その映画を撮る権限とリソースを与えられ、しかもその映画を作ることによって多くの人に力を与えられる上に、自分の名声も得られるかもしれないならどうか。なにより一番その映画を観たいのはわたし自身なのだ。

 

以上は、あくまでわたしの妄想の範囲だけど、そんな魅力的な状況に置かれたときに、そのあまりに強力な誘惑に抗える人間がどれだけいるだろうか。やはりわたしは、それほど器の大きな「賢者」は(ほぼ)いないと思う。

 

この作品はその「仕方がなかったのだ」という部分へどうアプローチして、アメリカの映画作品として成立させるか、という苦心が見てとれた。どちらにしても作品としては面白かった。

 

 

シアターを出るとロビーはすごい人だった。レイトショーの終了後は、大体映画館の片付け作業中のスタッフがいるくらいで、ふつう閑散としているものだが、どういうこと?と思っていると、みんな劇場版『名探偵コナン』の0時スタートの最速上映に臨むお客さんだった。お祭り感がすごかった。

 

この話を職場の同僚にするとコナンファンの間では、「コナン友達」という友人関係があって、普段は疎遠な友達だけど、コナンの映画を観るために年に一回会ったりするらしい。すごく素敵なことだと思う。思わずその場で感慨にふける。

 

家に帰るとパートナーがベッドでラジオを聴きながら寝落ちしていた。わたしもシャワーを浴びて寝る。