いぬのいる島

日々、散歩しては迷っている

冷蔵庫が唸っている

家の冷蔵庫の立てる音が大きくなっている気がする、と気がついたのは、いつだろう。

 

冷蔵庫から鳴る「ブーン…」という音が「ブウゥゥーーーン…」くらいになっている。

ネットでちょっと調べてみると、異音を立てる原因となる装置は、コンプレッサーやらファンやらサーモスタットなど、考えられる部品がいくつもあり、対応策として冷蔵庫まわりの掃除や、霜取り、防振シートを使用するなど、素人でもできるものもいろいろと載っていた。

 

一度気にしはじめると、冷蔵庫の立てる音への関心は、もはや無視できないものになってきた。

 

たしかにこの冷蔵庫は学生の時から使っているもので、使用年数はかなり長い。いや、そもそもがわたしの父が単身赴任で使っていたもののお下がりだった。そう考えると、もっと前から使っていたわけで、いつ故障してもおかしくない。

おまけに5度は引越しで連れ回してしまっているし、今も特売で買いだめした肉や野菜が詰め込まれている。

学生時代の夏休み、二週間ほど家を空けたときには、放置していた冷蔵庫内の料理から、とても鮮やかなオレンジ色のカビのような正体不明の物体が誕生していたこともあった。懐かしい。ほどんど蛍光色だった。

 

いつも同じ空間にいたのに、異音を発生させるまでは気にしなかった冷蔵庫。

 

「音を立てる冷蔵庫」といえば、著:パク・ミンギュ/訳:ヒョン・ジェフン、斎藤真理子の韓国の短編小説集、『カステラ』の表題作を思い出す。大学生の青年が、騒音を立てる冷蔵庫に心を寄せていき、さらにはいろいろなもの(本当にいろいろなもので、世に害をなすと思ったアメリカや大学など)をどんどこ放りこんでいく話だった。また読みたくなってきたな。

 

 先日読んだ、著:レベッカ・ソルニット/訳:東辻賢治郎のエッセイ、『迷うことについて』ではこんな文章があった。

 

そして哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、彼が第四のカテゴリーすなわち「〈知られざる既知のこと〉、つまり我々が知っていると我々が知らないこと。まさしくラカンが「自分自身を知らない知識」と呼んでいたフロイト的無意識」に触れていないと指摘した。さらに「真の危うさはその否認されている信念や推測、あるいは我々が知らない振りをしている不当な行為のうちに存在する」と。地図に残された未知の土地は、知識もまた未知の大海に囲まれた島だと教えるのだが、わたしたちがいる場所が陸地なのか海なのかはまた別の話なのだ。
 
見て見ぬふりをしているに事柄に、あらためて向き合い直すのは本当に難しくて、なにか「こと」が起きてから、「まあ、わたしは気づいていたんですが」なんてぬけぬけと言ってしまうこともしばしばだ。
 
何かが起こってから、あの時に前兆はなかっただろうか、なにかサインを発していなかっただろうか、と過去を思い返す。でも、過去の可能性の泡の薄い膜は、眺める角度によって何色にも見える、自分を慰めるための、現在の自分を守るための物語になっていることがほとんどで、決して真実は見えないし、中にはなにもない。
起きた「こと」をなんとか飲み下したり、脇に置いたりしながら、日々を送るしかない。
 
わたしは、冷蔵庫が立てる音が大きくなっていることに気がついた。それなら、まずは冷蔵庫の周りを掃除することからはじめよう。
 
そして認めよう。このブログを開設し、2年近くまったくなにも書いていなかったことが気になっていたのに、忘れたフリをしていたことを。