いぬのいる島

日々、散歩しては迷っている

5月14日(木)「ウロオボ アトラス」

 
 今朝はアラームが鳴ってから30分くらい経って起きた。コーヒーを淹れてPCを立ち上げる。
 
 日記を書くことにする。なんか昨日のテラリウムをテイクアウトのお弁当に見立てると書いたことを思い返すと、「なんかうまいこと言わな」という感じで書いてしまったことに苦い気持ちになる。その文で書いたことは、わたしが思っていたことではなく、感じていたことでもないな、と時間が経ってみて思い知る。昨日の記事の考えかた、書き方の形式はわたしが日記に求めているものではないし、その違いは微妙なものなのだけど、要はわたしは自分のために日記を書くのに、別の誰かに「うまいこと言うやん」と思ってもらおうとしていたのだ。日記としては目的を失っている。楽しまれるなら、たとえばそのまま妄想を飛躍させるほうがまだ愛せる。今後は「うまいこと」を書こうとするのはやめないと、どんどん自分の思考を自ら改ざんするようになるだろう。自己満足の日記だからこそやめないと。朝食は合間にコーンフレーク。
 
 Aちゃんも起きてきて、起き抜けに仕事を始めた。わたしは洗濯を始めることにする。そしてベランダには洗濯ものが残っていたのでそれを取り込んで畳む。
 
 服も着替えて、府立図書館へ行く。『まんが道』愛蔵版4冊などを返却しにいく。家を出る前に府立図書館のWebサイトを調べてみたら緊急事態宣言が延長されたことで、返却期限も延長されていた。まあもう読んだので、返しにいく。しかし、『まんが道』全4巻は重い。というかそもそも厚みが半端じゃない(1,000ページ以上)が返却ポストに入るのかわからない。
 
 しかし外はとても天気がよく、気持ちがよかった。岡崎公園にもそれなりに人がおり、子どもたちは「発散するならいましかねえ」という感じでむちゃくちゃな走り方をしている。観光客がいないように見える岡崎公園はレアだ。返却ポストに行って、『まんが道』を入れてみると普通に入った。全然あれやな、余裕やな。まあめちゃくちゃ厚い本は他にもあるもんな。帰りに川端通りのフレスコで缶チューハイ(樽ハイ倶楽部)を探す。意外に置いてないなあ。
 
 流れ流れて五条のフレスコへ。木屋町通を南に降りていくと、陽の光がもう葉っぱが繁った桜を通して降り注いでいて、とても気持ちがよかった。樽ハイ倶楽部を見つけて、苺が安くなっていたので練乳やハチミツなども買った。さらに文房具屋へ寄ってノートとポストイットを買い、帰宅。
 
 なんか映画が見たくて、前職の同僚のE君とこの間オンライン飲みをしたときに勧めてくれていた『クラウド アトラス』を見る。Aちゃんも一緒に見始めた。見進めてみると、ぼんやり見たことがある気がする。映画が進んでいく。あれ?このシーン見たことある気がする……。おそらく見たことがあるのだ。でも話の筋は覚えていない。

 

クラウド アトラス (字幕版)

クラウド アトラス (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 この日はAちゃんが歯医者の予約を入れていたので、その前に映画を途中で切り上げて昼食にする。でも前日の残りものが多くて温め直すだけ。昨晩握っておいたごま塩むすびと、味噌汁、長いものめんつゆ煮、手作りなめたけ、ししゃもの焼き魚、水菜のツナサラダ、鳥モモの山椒炒め、、、。Aちゃんが「ディズニーランド行くなら、夕方からどっかのイベントで貸切がある日が客が少なくて狙い目なのだ」という話をしていた。
 
 Aちゃんは歯医者に行ったと思ったらすぐに済んで、帰ってきたので、また『クラウド アトラス』をみる。ここでやっと確信に至ったのだが、わたしは過去にこの映画を見ている。しかし思い出せないのはこの映画にも少し責任があるし、むしろそれこそが狙いなのかもしれん。
 
 『クラウド アトラス』は、とても入り組んだ映画だ。意欲作といえるだろう。調べたら、原作小説の設定の複雑さから、映像化は不可能だと言われていたそうだ。あのウォシャウスキー姉弟の監督作で、原作小説は2004年。3時間弱の長尺の作品で、コロコロと時代と世界が入り組むので、まるで夢で見たかのような記憶の残滓しか残っていなかったのだ(なにかの作業用BGVとして見たような気もするが)。
 
 映画としては粗を探せばわりかしボロボロと出てくる映画ではあると思う。特に未来というか過去というか、ペ・ドゥナ演じるソンミが革命に加担していくエピソードは、アクション関係や背景への雑な部分が目立った。というか背景が作り物に見えたので、俳優との合成があまり上手くいってなかった。そのたびに脳内で理由をひねり出そうとしていた。CGによる世界観を伝えるような画面づくりはかなり精巧につくれていたように思えるので、あまりこだわりがないのか、もしくはお金がかかりすぎたのだろうか。
 
 でも嬉しい発見は2つあった。1つには、この映画の登場人物はそれぞれ魂の生まれ変わりであるという設定を表現するために、各俳優は様々な世界と時代で異なる役を演じ、それぞれの物語が同時に進行していく構成になっているのだが、この次々場面が変わっていく際に、入れ替わるシーンの前後が同じ要素を持っている。連想ゲームのようなこの編集で、類似する出来事の体験が各エピソード間のつながりを表現している。このことが、見ているわたしには物語はひとつの筋というよりかは全体の流れとして捉させ、二度目に作品を見てみるとまさに「あれ、この場面見たことあるな…」という既視感(デジャブ)のような不思議な感覚を体験させた。それが作品の狙いと一致していて、物語の世界観とのシンクロを楽しむことができた。
 
 もう一つは、ウォシャウスキー姉弟は『マトリックス』的な近未来SFのような作品が得意、というイメージを勝手に持っていたのだが、老人のドタバタコメディの描き方がうまくておもしろかったことだ。その理由としては、おそらくいくつものエピソードの内のひとつということで、リズムを早くする必要があったことが影響していると思うのだが、俳優陣の奮闘ぶりもあり、また監督独特のこだわりのなさが、ドライな距離感として作用していて、皮肉たっぷりの温度感を楽しめた。こういう作品なら見てみたいと思った。
  
 『クラウド アトラス』を見終わったあとは、Aちゃんが豚キムチを作ってくれて、昼の残りと夕食になった。わたしはお昼に買ったチューハイを飲む。テレビを見ていたら、緊急事態宣言の解除を39県で行います、という会見をしていた。大阪も明後日から休業要請は解除とのことなので、わたしも働く準備をしておかないと。もう働ける気がしないけど。
 
 食後はわたしが皿洗いをした。そして、しばらくの間、Twitterで話題の『連ちゃんパパ』を読む。「ひどい、外道の話だ」と言いたいところだが、登場人物の人間的な側面も描かれており、それがあの”のほほん”としたタッチでシームレスに悪い行いをする、その善悪の境界の曖昧さ、人の堕ちやすさをドライに描いていることがこの漫画のすごいところだろう。わたしもそちら側へいく可能性が十分にあるということを自らに思い聞かせるに十分な迫力があるし、そのおかげでおもしろいのだ。しかし登場人物の行いのひどさはすごい。Aちゃんに内容を説明すると「それ楽しめる?楽しい?」と疑問顔だった。